先週、新国立劇場に『桜の園』を観に行ったことを書きました。

『桜の園』を見て、社会について考える

上演に合わせて、マンスリー・プロジェクト11月演劇講座「チェーホフの魅力」という講演会が開催されたので、行ってきました。

講師は、浦雅春さんという老齢のロシア文学者です。
この方の『チェーホフ』(岩波新書)は過去に読んでいたので、楽しみでした。
浦さんは、光文社古典新訳文庫の翻訳もされています。

僕自身、高校生時代から、チェーホフの短編小説を読んできました。
戯曲は読みにくいので、数年前まで読んだことなかったですが・・・

よく言われていますが、チェーホフは日本人の感性に良く合います。
登場人物は本音を語らない。
人生がうまくいかないことの静かな諦観がある。
そんなところが、日本人に好まれる要素だと思うし、僕もそういうところが良いと思います。

講演では、やはり『桜の園』がメインでした。
ところがこの作品、良く分からないところが多いんですよね。
メインのストーリーにあまり関係ない登場人物がたくさん出てきて、あまり本筋と関係のない、良く分からない行動を取る。

浦氏によると、チェーホフ自身が元々そういうモノの見方をする人だそうで、死の直前になって、その本性が露呈したのが『桜の園』だったということです。

チェーホフの登場人物の多くは、必死に努力するわけでも、積極的に行動するわけでもない人が多い。
それでも、人生の中で願いかなえたいと思っている。
巡り合わせが悪く、結果的には願いがかなわない。

チェーホフの4大戯曲のひとつ『ワーニャ伯父さん』では、自己犠牲で人生の大半を棒に振ってしまった主人公のワーニャのこんなセリフがあります。

僕はもう四十七だ。かりに、六十まで生きるとすると、まだあと十三年ある。長いなあ! その十三年を、僕はどう生きていけばいいんだ。どんなことをして、その日その日を埋めていったらいいんだ。
せめて、この余生を、何か今までと違ったやり口で、送れたらなあ。きれいに晴れわたった、しんとした朝、目がさめて、さあこれから新規蒔直しだ、過ぎたことは一切忘れた、煙みたいに消えてしまった、と思うことができたらなあ。

改めていま、このセリフが心に沁みてきます・・・


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