シンゴジラ

『シンゴジラ』について、昨日は全体的な感想を書きました。

『シンゴジラ』は本当に名作なのか?(1018本目)

観ていて気になったのが、本作が愛国心を鼓舞するような作品になっているということです。
外敵が攻めてきたら国を守るのが政府の仕事だし、国民がそれに協力するというのは当然のことです。
映画で愛国心を描くのが悪いとも思いません。

ちなみに、日本では、「愛国者=右翼」という図式が成立していますが、他国では愛国左派というのも普通に存在しています。
このことは、『余は如何にしてナショナリストとなりし乎』(福田 和也)に書いてあります。

そんなわけで、愛国心と言うのは、政治的な信条とは切り離して成立しうるものです。

でも、『シンゴジラ』で描かれている愛国心にはなんとなく違和感があったんですよ。
何故なんだろう??

と疑問に思っていたのですが・・・
『シンゴジラ』をネットで検索していたら、下記のレビューが出てきました。

絶賛されている『シンゴジラ』が個人的に58点の映画だったので海に身を投げたい

さらに、このレビューに対する批判も出ていました。

シンゴジラが58点な感性にウケる大味なエンタメ

いずれか一方に肩入れするわけでもないですけど、双方を読んでいて合点がいくところがありました。

この『シンゴジラ』、登場人物は非常に多いんですが、彼らの家族や恋人が描かれてないんですよね。
男女間のコミュニケーションはあっても、恋愛関係はありません。

ハリウッド映画は違うんですよ。
(全てがそうだとは言いませんが)

主人公の家族や恋人の存在が描かれている。
そして、主人公が国家のミッションに注力する中で、家族や恋人との板挟みになったりする。
場合によっては、家族や恋人が、主人公が立ち向かっている世界に入り込んで危機にさらされたりします。
主人公「愛する人を犠牲にして、人々を救うべきか」みたいな二者択一の葛藤状態に陥ったりする。

大抵は危機一髪でうまくいって、愛する人も、人類も両方救われたりするわけですが・・・

「愛する人を守ることの延長線上に、国家を守ることがあり、両者は矛盾しない」というのが、ハリウッド映画が発信してきたメッセージじゃないかと思ったりするわけです。
(全てがそうだとは言いませんが)

だから、家族・恋人も国家も両方救われないといけないのです。
(たまに、家族や恋人が死んだりすることもあるけど)

「アメリカ人は愛国心の強い国民だ」と良く言われていますが、日本人の愛国心とは異なっている気がします。
国家というのは、幻想というか、後天的に人々の努力で作り上げられた人為的なものだという発想が根本にあるんでしょうね。
そうした中で、自分という存在があり、自分の愛する家族や恋人があり、その延長線上に国家という存在がある。

一方で、『シンゴジラ』を見ていても、家族や恋人が中間に存在しないんですよね。
ゴジラを攻撃することで、「市民が被害を受けるかもしれない」という葛藤はあっても、「愛する人が死ぬかもしれない」という葛藤はない。

だからこそ、迷わうことなくミッションに邁進できる。

そう言えば、『エヴァンゲリオン』が出た後、「セカイ系」という言葉が頻繁に使われるようになりました。

「僕(+彼女)の閉じた世界が、国家・地域社会などの中間項をすっとばして、世界の命運と接続する」という物語に対して使われてきました。

この『シンゴジラ』はセカイ系の物語とは全く異なります。
でも、個人が国家と直接繋がっているという、中間項が飛ばされているという構造は同じなんですよね。

吉本隆明の『共同幻想論』の言葉を勝手に使わせてもらうと、「個人幻想」が「対幻想」と関わりなく、「共同幻想」として昇華されている。

描かれ方の是非はさておき、ハリウッド映画と比較すると、日米の愛国心の違いが出ていると思います。


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