昨日書いた日記の続きです。
古代ギリシア人にとって、働くことは美徳ではありませんでした。
労働は奴隷の仕事。
「市民」は公職に付いたり、文化的な活動を行っており、そっちが高級な生き方だったと言います。
あと、キリスト教文化圏では、労働は「神の罰」であり、尊いこととは捉えられてなかったと言います。
30年ほど前に読んだフランス人のエッセーでは「だから、フランス人はできるだけ働かず、人生を謳歌することを重視するんだ」みたいなことが書かれていました。
画家のゴーギャンをモデルにした『月と六ペンス』(サマセットモーム)という小説があります。
主人公が画家になるために、家族を捨てて失踪してしまいます。
残された奥さんは、食い扶持を失ってしまい、働いて家族を支えなくなります。
その奥さんについて「上流階級の女性が働くなんて、恥ずかしい!」みたいなことを言う女性がいたんですよね。
そのくだりを読んだとき、「あれっ?」と思いました。
最近では「女性も働くべき」という考え方が主流になっていて、そういう考え方に染まっているせいど、こういう考え方に馴染めなくなっていたんですよね。
でも、古代ギリシアに限らず、貴族社会においては、女性に限らず、男性においてもあくせく働くことは美徳ではなかったはずです。
そういえば、僕の子供の頃は、公務員、大手企業勤務、医者や弁護士等の奥さんは、専業主婦が多かったと思います。
みながそうだとは言いませんが、「収入が多い家庭は女は働かない」というのが一般的だったと思います。
僕の家庭は自営業で、共働きをしていたのですが、そのことが後ろめたかったんですよね。
女が働くのが当たり前だったのは、考え方が進んでいるわけでもなければ、男女平等の考え方が浸透していたわけでもなく、働かないと人手が足りなかったからだし、収入も十分ではなかったからです。
いまは、資本主義社会がどんどん浸透して「金を稼ぐ奴が偉い」「全ての成人は経済的に自立すべき」という発想が浸透してきました。
日本社会では、人口が減少し、高齢化が進む中、働き手を必要としているという環境もあるでしょう。
いずれにしても、歴史的に見て、「人は働くのが当たり前」「働くことは立派なこと」という時代は短く、特殊なのではないかと思ったりします。
僕が、自分に都合よく解釈している部分もあるのかもしれませんが、やっぱり歴史を見るとそういう感じなんですよねえ。
働きたければ一生懸命働けばよいですが、僕は自分の時間を削ってまで働きたいとは思いませんね。
以前は、そのことは自覚してなかったし、そう思うことがあっても、自分を偽っていました。
社会の通念というか、時流というか、そういうものに流されて、自分を見失わないようにしたいものです。