高輪ゲートウェイ

JR品川新駅の名称が「高輪ゲートウェイ」に決まったことが物議を醸してますねえ。

どういう名称が適切なのか?
に関しては、すでに色々と議論されているので、ここでは書きません。

疑問なのは「なんで高輪ゲートウェイが選ばれたの?」ってことです。
ネーミングに関しては、公募制を取っていて、実際に6万件以上の応募があった。
で、「高輪ゲートウェイ」は36人が応募し、130位だったってことなんですよね。

なんで公募しておきながら、順位の低い案が得られるのか?
下記の記事に説明があり、経緯は理解できました(ネーミングを受け入れたということではないです)。

JR品川新駅、なぜ「高輪ゲートウェイ」なのか? 6万件超の応募で決定、そのものズバリは36件

最近、民主主義制度に対して疑問を抱くようになってきました。
米国の大統領選では泡沫候補のトランプが選ばれるし、英国の国民投票では誰も得しないEU離脱案が採用されてしまう。

単純に得票数や多数決で物事を決めるのは賢明ではないと思うんですよね。

駅名の名称に関しても、多数決で決めると、インパクトのない、面白みのない名前が選ばれてしまいます。
広く門戸を開きつつも、数の論理(多数決)ではなく、議論と検討を尽くして決めるというやり方は間違ってはいないと思います。

しかし、決まった結果を見ると、「???」(疑問だらけ)となってしまうんですよねえ。

会社員時代、僕自身も似たような経験をいくつかしていますので、こうなっちゃう理由もわからなくはないです。

広く募集した案を事務局で検討する際に、投票数は参考にしつつも、多角的に検討するのですが・・・
その際に、受益者ではなく、「内部の論理」が働くんですよね。

例えば「三菱東京UFJ銀行」なんかがそんな感じで決められたんでしょうね。
「どこか1社の名前だけ残すんじゃなく、すべての旧・会社名を入れないと公平じゃない!」
「力が強い会社の名称を前に持ってくるべきだ!」
みたいな政治的圧力が働いて、利用者には覚えづらく、印象にも残りづらい、センスのない名称が採用されてしまう。

こういうことって、会社員時代には良くありましたよ。
様々な要素を忖度しているうちに、誰も「良い」とは思っていない案が採用されてしまう・・・みたいなこと。

結局、何かを決める時には、それを決裁する偉い人がいるので、その人に通りやすい案を選ばないとならないんですよね。
そういう人が、「再開発エリアの玄関口として相応しい名前にしたいねえ」みたいなこと言っていたら、「高輪」とか「芝浦」みたいな無難な名前は却下になる。

「でも、地名を入れないと駅名としては不適切ですよねえ」
「じゃあ、高輪という名前を採用しつつ、それにそれっぽいワードをくっつけますか」
「そうであれば、130位と応募数は少ないですが、高輪ゲートウェイという案がありますよ」
「ピンとこないけど、偉い人の意向も組みつつ、駅名としての諸条件を満たすのはこれしかないですねえ」

みたいなことになる(上記は想像です!)。

日本の場合、「偉い人」と言っても自分からは「高輪ゲートウェイで決まりだ! これでいくぞ」みたいなことは言わないので、見かけ上は合議制で決まったような体裁になる。

クレームが付いても、みんな「別に自分が決めたわけじゃないし・・・」となって、誰も責任を取らない。

たぶん、そんな感じだったんじゃないかと推測します(完全に想像)。

まあ、そんな感じで、「高輪ゲートウェイ」駅は、日本型民主主義の不備によって名称が決定されたものではないかと思います(完全に想像)。

そう言えば、東京五輪の最初のエンブレムが撤回された後の代替案の選考は、国民の声も聞きながら、妥当な案に着して、炎上もしませんでした。
「日本型民主主義」もうまくやれば、しっかり機能するはずなんですけどねえ・・・

以上、妄想と想像で書いちゃいました。


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